豊かな自然、歴史をふまえ、生と死を見わたし、未来が開けるお寺。
喜びをもって、生き生きと暮らせる故郷を創ります。
現代の問題を一言で言うなら、死を単なる生物学的な死としか見ることができない。死の意味が見えないということではないでしょうか。
死者に掌を合わすことは、生の厳粛さに気づくことです。死を浄土に生まれること(生の完成)だと肯定的に受け取ることは、生の意味を取り戻すことになります。死の悲歎と不安からの解放、生と死の意味の回復です。
訪問すると、そのような感性を取り戻すことができる。そのようなお寺の佇まい、機能を持ちたいと念じています。
迷いの生と死を超えて、真に豊かな未来が開ける現在に立つ。そのような道場でありたいと願っています。
天正十五年(1587年)に創建。今井浄喜寺三世良慶の弟子となった慶悦が初代開基。現在の住職、釋一乗は第十六世です(※1)。
戦国末の本願寺(一向一揆)と織田信長との合戦に参加したことが大きな契機になっています。
文禄元年(1592年)に慶悦の子、慶永の代に浄喜寺を通じて正式に本願寺より寺号免許を頂きました。
爾来、真宗大谷派、俗に「お東」のお寺として伝統を護ってきました。
※1
歴代住職の没年を調べてみると、空白の期間(80年間と60年間)があり、
没年不詳の法名もあるため、この間がカウントされていないのかも知れません。
現在の本堂は、明治末年から大正元年(1912年)にかけて建立されました。もともと上高屋・寺方(かみたかや・てらがた)にありましたが老朽化のために移転、新築することになりました。他地区門徒の利便性、お寺の将来性を考えて下高屋案もあり、どこに移転するか、なかなか議論がまとまらなかったといいます。結果的に上高屋・猿林(かみたかや・さるばやし)の現在地になったらしいのです。
上高屋の地元にお寺を移すにあたり、御正忌のお斎(とき)のお世話を上高屋門徒が担当し、総代も地元上高屋に引き受けさせてもらう旨が約束されたといいます。このことが現在(2011年(※2))まで続いてきたのは、お寺の存立にかかわるほどに、その当時の議論のエネルギーが大きかったことが思われます。ちなみに「妙見山」という山号は、昔お寺があった場所の背後の山です。今でも妙見神社があり、由緒のありそうな場所です。
※2
2011年以降、お斎は上高屋地区以外も参加してブロックごとに担当しています。
総代は上高屋2名、それに犀川谷、城井谷ブロックから交代で1名の計3名となっています。
念信寺は、本願寺と織田信長の石山合戦(1570~1580年)のおり、初代慶悦が教如上人の窮地を救ったことにより、「念仏正信偈」(文類偈)に由来して「念信寺」の寺号を賜ったと伝えられています。
お念仏をよろこぶ人々(浄土真宗の門徒衆)は聞法道場(寺)を中心として、生きとし生けるものに仏の願いがかけられていることを民衆の一人ひとりに伝えてきました。
お念仏の教えは豊前の地でも数百年にわたり、手から手へ、人から人へと、聖火リレーのように生まれて生きることの感動を伝えてきました。今日の私たちの課題は生きることの意味を新たに模索し紡ぐことです。
お寺は皆が集まる場所。話し合いの場所。楽しい集いの場所。大事なことを話し合う場所。また一人静かに向き合う場所。そのような場所でありたいものです。